アインシュタインとモーツァルト


 ─死とは……、モーツァルトを聴けなくなることです。

 出典は不明だが、ある人の「死とはどんなものだとお考えですか?」という問いに対するアインシュタインの答えとして伝えられている言葉である。

 20世紀を代表する天才物理学者アルベルト・アインシュタインは、1879年ミュンヘンから西へ約130kmにあるドイツの小都市ウルムに生まれた。父親は商人だったが、母親は才能あるピアニストで家庭内に音楽を持ち込んだことから、アインシュタインは6歳頃から13歳頃までヴァイオリンの指導を受けた。アインシュタインのヴァイオリンへの愛着はこのときから始まっていたのだった。ちなみにモーツァルト研究者で有名なアルフレート・アインシュタインは彼の従弟であることはよく知られている。
 父の新しい事業のためにミュンヘンに移ったアインシュタインは、10歳から15歳まで規則的にアインシュタイン家を訪れた医学生タルムートによって科学と哲学に親しむようになる。その影響もあってか、彼は12歳から16歳まで独学で微分と積分を学んだ。
 スイスのチューリッヒ工科大学卒業後、26歳で5本の科学論文を発表する。このうち2つは特殊相対性理論に関する内容であったが、従来の物理学の常識に反するものであったことからすぐには受け入れられなかった。だがスイスの特許局に勤務しながら書いたほかの論文で注目を浴び、各地の大学から教授として招かれるようになる。
 1916年に特殊相対性理論を拡張した一般相対性理論を発表、空間はゆがんでいるとするこの説は、大反響を呼び、1919年の皆既日食で、光が重力の影響で曲がることが観測されこの理論が証明されたことから、アインシュタインは一躍世界的有名人となった。2年後、ノーベル物理学賞が贈られ、名実共に科学者の頂点に立ったのだった。

 1932年、ナチス・ドイツの台頭に伴い、日増しに激しくなってきたユダヤ人への迫害から逃れるため彼はアメリカへ亡命、翌年新設されたプリンストン高等研究所の教授に迎えられた。
 1939年、ドイツの科学者がウランの核分裂を発見した。それは、アインシュタインがE=mc2で示唆した「小さな質量が莫大なエネルギーを生む」理論が現実となり、原爆開発の可能性が格段に高まったことを意味していた。これに関連して、彼がルーズベルト大統領にあてて原爆開発を促す手紙に署名したという話が流布している。だがこの手紙の内容は、原子爆弾開発の可能性は記述してあるものの、原子爆弾開発を促すものではなく、むしろエネルギー源として研究を進めさせて欲しいというものであったことが今では分かっている。
 しかし、彼の意図とは関係なく2年後の1941年秋にアメリカで原子爆弾の開発・製造がスタートする。有名なマンハッタン計画である。最初、アインシュタインの署名入りの手紙だけでは原子爆弾の開発・製造には不明の点が多かった。だがイギリスの科学者たちの「実際に原爆が作れそうだ」という検討結果が、1941年の夏頃から様々なルートでアメリカに伝わるようになり、これがアメリカが原子炉から原爆へと政策を大きく変える要因になったといわれている。そして原子爆弾は、ナチス・ドイツではなく日本に投下されたのだった。
 戦争終結後、アインシュタインはこれを悔やみ、平和主義者として核兵器廃絶を叫び続ける。1955年、10人の科学者とともに、核兵器反対、紛争の平和解決を訴える「ラッセル=アインシュタイン声明」に署名した1週間後、腹部大動脈瘤破裂で76歳の生涯を閉じた。


お勧めの作品<弦楽四重奏曲 第17番 変ロ長調 K458≪狩≫>

 天才物理学者アインシュタインは、親友たちとアマチュアの室内楽団をつくり、モーツァルトの弦楽四重奏曲をこよなく愛したとされている。アインシュタインの趣味はヴァイオリンだった……。 

 モーツァルトの弦楽四重奏曲の中で一番有名なのはこの第17番の≪狩≫と呼ばれる曲だろう。この曲は≪ハイドン・セット≫と呼ばれる6曲の中のひとつで1784年に作曲されたことが知られている。
 モーツァルトがウィーンに定住することになったのは、26歳のときの1781年5月のことである。亡くなったオーストリアのマリア・テレジアのことでウィーンに来ていたザルツブルクの大司教から呼びよせられたモーツァルトは、大司教から恥も外聞もないひどい仕打ちを受けて、大司教に辞職を申し出て、結局は大司教との同行を断ってウィーンにとどまってしまったのだった。
 音楽家として自立の道を歩み始めたモーツァルトが、ハイドンの発表した弦楽四重奏曲に大いに啓発され刺激を受けて作曲したのが1782年から3年以上の年月をかけて仕上げた6曲の弦楽四重奏曲だった。先輩ハイドンの四重奏曲とは異なる創意に満ちた、個性的な作品を創るためにモーツァルトは珍しくその作曲に苦労したことが知られている。もちろんモーツァルトはこの間に、この四重奏曲だけに没頭していたわけではなく、オペラ≪後宮からの逃走≫など数々の名作を仕上げているわけだが、この6曲の弦楽四重奏曲の自筆楽譜にはこれまで類例がないくらい補筆や訂正が行われており、その労苦が窺われる。この6曲がまとめて出版されたとき、ハイドンへの献呈の辞のなかで、「長い間の労苦の結果実った果実」と書いたのもそうした背景があったからだった。
 1785年2月、ウィーンに来た父レオポルトを囲みモーツァルトの家で音楽の集いが開かれ、この曲を含む≪ハイドン・セット≫のなかの3曲が演奏された。これに招かれたハイドンは、レオポルトに向かって、自分の知るかぎり、もっともすぐれた音楽家だとモーツァルトのことを称賛したというエピソードが伝えられている。

(参考;モーツァルト大全集、音楽之友社)