ケイローンの教え

信仰と洗脳

 人は、人生の折々に、超自然的な力が働いているのではないか、と感ずる体験をすることがある。
 卑近な例では、宝くじに当たった、競馬の勝ち馬を当てた、入学試験に実力以上の力を発揮できた、 などなど可能性がきわめて低い場合に起きた幸福な出来事の例、交通事故に巻き込まれた、実力があるのにたまたま体調が悪く試験に落ち た、はるかに実力以下の相手とサッカーの試合をして負けたなどなど普段は起こるべくもないと思っていたのに遭遇した不幸な出来事の例。
 マスメデイアが発達した現代では、このような幸福も不幸も、自分だけではなく、他の人々にも日常的な こととして起こっていることを誰もが知っている。

 昔は情報が隔絶されていた。したがって信仰を組織化した教団は、自分たちの都合の良いように教団信者 をコントロールすることができた。情報を一方的に流し、信者を洗脳することができたからだ。
 科学的知性が発達した現代では、宗教も呪術的宗教から倫理的宗教へと変貌することが期待された。だが、 情報過多となった現代では、情報の多さが逆に情報の隔絶をもたらすようになっており、呪術的宗教の 跋扈を許す土壌を形成している。あまりの情報の多さに、どのような情報を信じてよいか分からなくなっ ているからだ。自分から情報を集め、その真偽を判断する努力を億劫に思う人々が増えているからだ。
 ここに現代においても教団指導者の支配力が強まっている背景がある。

 近代合理主義の精神は「呪術の克服」によって成立したと分析したマックス・ウエーバーは、呪術と科学 について次のように比較している(青山秀夫「マックス・ウエーバー」、岩波新書)。

 例えば、畑の隅にあった変な石を椰子の木の根もとに置いた。すると、その木だけ特にたくさん立派な果 実がついた。これはその石には何か特別な力があるからである。こう見るのが呪術的な考え方である。
 この呪術的信仰のもとでも世界(自然および社会)は、やはり因果律にしたがって動いており、しかもそ の法則は経験と結びついている。科学と違うのは、この法則の性質であり、それと事実との結びつき方で ある。何よりもまず、世界の背後に超自然的な力が何らかの形でひそんでいると信じてしまう。法則は この呪力(あるいはそれを象徴する物または人)と結んで考えられる。さらにまた、その法則の基礎には 事実(少なくとも事実と信ぜられたあるもの)がある。しかし広く経験を集め、合理的推論によってそれ を確かめようとはしない。したがって、神秘的な力とならんで、神秘的な因果律の支配が認められることになる。

 しかし一層重要なことは、こういう法則の頑固さである。呪術的因果律は学問における作業仮説のように あとで改変されうるものではない。八百屋お七の放火という一度確かめられた事実がある。ここから丙午 (ひのえうま)の女は縁起が悪い、という法則が成立し、その後どんな事実があらわれても変化しない。 よきにつけ悪しきにつけ、そうである。呪術的意味では効験性が一度確かめられれば、その行為形式は 千篇一律に繰り返される。後の祟りが恐ろしく少しも型を破ることはできない、版でおしたような繰り返し が起こる。ウエーバーのいう社会の固定的停滞化が生ずるわけである。
 人間の弱さとでもいおうか、科学が要求するように、一切の希望を捨てて、顧慮することなく現実を直視する ことは容易ではない。環境それ自体は人間に好意も悪意も持たぬ「物」であろう。しかしこの環境を好意 あるものとして見、その好意に身をゆだねることは、幻想的であるにしても、しかし生に「刺激と励まし」 (ベルグソン)を加える。呪術的表徴は、進歩を犠牲として、生活に安易と気楽さを与えることができるのだ。

 信仰は、個人が自らの知性と感情の総和として超自然的なものに心の中で畏敬の念を表現するものであり、 あくまで自己と神(超自然的なもの)との精神的な交流なのだ。
信仰が、教団として個と乖離していくとき、それは洗脳となる。そのときすでに自己の信仰の基盤は失わ れているといえるだろう。

 科学的合理性の限界という名のもとに、呪術に身を任せる人々が後を絶たない。宗教が教団として組織化 されるとき、マインドコントロールの悲劇がいかに深刻なものであるかをオーム真理教事件で学んだはず なのに、現代の日本の新興宗教は、マインドコントロールをオーム真理教に特別なものとして封じ込め、 みずから呪術性を否定する根拠とさえしている。日本人はまだ科学的合理性に直面できず呪術に身を任せているのかもしれない。